Subject : クシャーナ朝
カテゴリー : 歴史
クシャーナ朝
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紀元1世紀中頃、中央アジアの大月氏国の支配を脱した同じイラン系民族のクシャーナ族が、西北インドに侵入して国家を作った。クシャンとも表記し中国では貴霜と書く。
第3代カニシカ王は仏教に帰依し、マウリヤ朝のアショーカ王に続く仏教の保護者となった。またこの時代に、ギリシア・ローマ起源のヘレニズムと、ペルシアのイラン文化、さらに中国と中央アジアの文化が融合し、ガンダーラ美術が開花した。都はガンダーラ地方の中心地のプルシャプラ(現在のペシャワール)。またこの時代に、仏教の革新運動としてナーガールジュナが登場し、大乗仏教が成立した。
前2世紀に匈奴に追われて西遷し、バクトリアに入ったイラン系の大月氏が、その地のイラン人を支配し、五つの諸侯をおいて統治させた。この5諸侯については、大月氏の一族と見る説と、土着のイラン系有職者と見る説とがある。その一つがクシャーナ族で、その首長のクジューラ=カドヴィセスが他の4諸侯をあわせて一大勢力となり、カドフィセス1世を名乗った。1世紀中頃南下して現在のアフガニスタンをパルティアから奪った後、北インドのガンダーラ地方に入って、クシャーナ朝を建国した。
クシャーナ朝時代は地中海をローマ帝国が支配していた時代で、ローマ帝国の支配下のギリシア人商人がペルシア湾からアラビア海に進出し、季節風貿易を展開した。前1〜3世紀には、クシャーナ朝だけではなく、デカン高原のサータヴァーハナ朝やインド南端のチョーラ朝も、インド洋交易圏の季節風貿易を利用したローマとの交易を行っていた。インドからは胡椒などの香辛料、宝石、真珠、象牙、綿布などが輸出され、ローマからはぶどう酒やオリーブ油がもたらされたが、常にインド側の輸出超過であったので、ローマから代金として金貨がインドにもたらされた。クシャーナ朝ではローマからもたらされた金をもとに、ローマ貨幣に模して大量の金貨を造った。
クシャーナ朝は3世紀に西方に起こったササン朝ペルシアに圧迫され衰退した。同じころ、ローマ帝国も3世紀の危機といわれる衰退期に入っており、ローマとの交易も衰えたことがクシャーナ朝の死体の要因の一つと考えられている。
- ● カニシカ王
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クシャーナ朝3代目の王。カニシュカとも表記する。2世紀から3世紀にかけて、ガンダーラのプルシャプラを都に北西インドを支配した。仏教に帰依し、保護政策をとったことで有名。王はインド各地に多くの仏塔や寺院を建て、第四回の仏典結集を行った。カニシカ王を始めクシャーナ朝の諸王はさかんに積極的にローマとの交易を行い、金貨を鋳造した。クシャーナ朝で鋳造された金貨は、ローマからもたらされた金貨を鋳つぶして鋳造したものであった。
- ● ガンダーラ美術
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ガンダーラ地方はインドの西北、インダス川の上流域のパンジャーブ地方に属する。現在は大部分がパキスタンに属する。西にカイバル峠を経てアフガニスタンに通じ、東にはインドの中心部デリー、さらにガンジス川流域に通じる。南にはパンジャーブの肥沃な平原が広がり、さらに南下すればシンドの地となる。
1世紀頃から3世紀頃にかけて、クシャーナ朝時代のインドの西北、ガンダーラ地方とタキシラで開花した仏教美術。本来仏教は偶像崇拝ではないので、ブッダを彫像で表すことはなかった。ところが、クシャーナ朝はイラン系の民族が造った王朝であり、バクトリアから起こった国であったのでヘレニズムの影響を受け、ギリシア彫刻を模して仏像を造るようになった。ガンダーラ仏はギリシア彫刻の影響を受けているが、4世紀のグプタ朝時代になると次第にヘレニズムの影響を脱して、インド独自の様式であるグプタ様式が成立する。
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