Subject : クレオパトラ
カテゴリー : 歴史
クレオパトラ
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古代エジプトプトレマイオス朝最後のファラオである。父はプトレマイオス12世(アウレテス)、母はクレオパトラ5世であり、兄弟はベレニケ4世(姉)、アルシノエ4世(妹)、プトレマイオス13世、プトレマイオス14世(共に弟)が知られる。「クレオパトラ」の名はギリシャ語で「父の栄光」を意味する。
クレオパトラが14歳の紀元前55年、父と姉ベレニケ4世は王位を巡って争い、父がローマの支援を得て勝利してベレニケ4世を処刑した。
紀元前51年、クレオパトラが18歳の時に父が死亡したが、父の遺言とプトレマイオス朝の慣例にのっとり、兄弟で最も年長のクレオパトラが弟のプトレマイオス13世とキョウダイ婚を行い、共同で王位に就いた。
紀元前49年、ガイウス・ユリウス・カエサル派とグナエウス・ポンペイウスら元老院派との間で内戦が勃発、父王時代からの繋がりでクレオパトラ7世は元老院派を支援し、ポンペイウスの子小ポンペイウスはアレクサンドリアを訪れ、クレオパトラ7世に兵員と食料の協力を要請した時、女王は小ポンペイウスに対し、予想を上回る兵員及び食料を提供した。
しかし紀元前48年春、このクレオパトラ7世の動きに不信を募らせたローマからの独立を標榜するプトレマイオス13世派は、アレクサンドリア住民が親ローマ主義のクレオパトラ7世に対して起した反乱に乗じてクーデターを決行し、クレオパトラ7世を東部国境のペルシオンへと追いやった。ポンペイウスはファルサルスの戦いにカエサルに敗北した後にエジプトに上陸したが、9月29日にプトレマイオス13世派に殺害された。
紀元前48年9月、ポンペイウス追討のためにエジプト入りしたカエサルは、和解を図ろうとして、両共同統治者をアレクサンドリアに招集した。当時、クレオパトラ7世はペルシウムでプトレマイオス13世派と戦闘しており、アレクサンドリアへ出頭するのは容易でなかった。プルタルコスによると、女王は自らを寝具袋にくるませ、カエサルのもとへ贈り物として届けさせ、王宮へ入ることに成功したといわれている(絨毯に包んで届けさせたと説明されることが多いが、史料では確認できない)。この時クレオパトラ7世はカエサルを魅了し、彼の愛人となった。これを知ったプトレマイオス13世は「怒り心頭に発し、王冠をはずし、地面に叩きつけた」といわれる。
一応、カエサルは両共同統治者を和解させるのに成功したとはいえ、この和解は15日間しか続かなかった。ディオ・カッシウスによると、プトレマイオス13世側がカエサル軍を攻撃したので、カエサルはその時ちょうどエジプトへ到来したローマ軍を使って、紀元前47年のナイルの戦いでプトレマイオス13世派を制圧し、プトレマイオス13世をナイル川で溺死させた。プトレマイオス13世と結託し、クレオパトラ7世と敵対していた妹アルシノエ4世は捕らえられてローマへ送られ、紀元前46年にローマで催されたカエサルの凱旋式で引き回された。
プトレマイオス13世敗死後、クレオパトラ7世はもう一人の弟プトレマイオス14世と結婚し、共同統治を再開した。女王は紀元前47年にカエサルの子カエサリオンをもうけたといわれる。プトレマイオス14世との共同統治はカエサルの後ろ盾を得て成立しており、実際にはクレオパトラ7世が単独で統治していた。カエサルの傀儡政権であったともいえる。
紀元前46年、カエサルが10年間の独裁官に任命され、凱旋式を挙行したころ、クレオパトラ7世はカエサリオンをつれてローマを訪れた(アルシノエ4世が市中を引き回されるのを見たかもしれない)。クレオパトラ7世は、カエサルの庇護のもと目立たぬ形でローマに滞在していたが、紀元前44年にカエサルが暗殺されると、カエサリオンを連れ急遽エジプトに帰ったらしい。
クレオパトラ7世がエジプトに帰国したころ、名目上の共同統治者であったプトレマイオス14世が死亡すると(死因不明、クレオパトラによる毒殺説もある)、クレオパトラ7世は幼いカエサリオンを共同統治者に指名した(プトレマイオス15世)。
紀元前42年のフィリッピの戦いでは第二回三頭政治側では無く、ローマ東方地区へ勢力を広げていたマルクス・ユニウス・ブルトゥスらの勢力を支援した。戦いはブルトゥスらが敗北し、三頭政治側のマルクス・アントニウスはクレオパトラ7世に出頭を命じた。これに対して、クレオパトラ7世はアプロディーテーのように着飾り、香を焚いてムードをつくってタルソスへ出頭した。逆にアントニウスを自らの宴席へ招待するなどし、瞬く間にアントニウスを魅惑したといわれる。アントニウスはエジプトに近いシリアなどの東方地域では勢力を維持しており、クレオパトラ7世と良い関係を作ることは、アントニウスにとって好都合であったことは事実である。
アレクサンドリアに戻ったアントニウスはローマではないこの地で大々的に凱旋式を挙行した。そのうえ、アントニウスはエジプトでの埋葬を希望するなど(アントニウスが書いたとされる遺言状をオクタウィアヌスが元老院で読みあげたもので、真偽は定かではない)、ローマを見捨てたかのように振舞うアントニウスにローマ市民は失望し、オクタウィアヌスを強く支持するようになった。最終的にオクタウィアヌスがアントニウスに宣戦布告したとき、この戦いは私闘ではなく、「ローマ対エジプト」という構図にされていた。
紀元前31年、アントニウス派およびプトレマイオス朝の連合軍とオクタウィアヌスが率いるローマ軍が、ギリシャ西岸のアクティウムで激突する(アクティウムの海戦)。この海戦の最中にクレオパトラ7世は戦場を離脱し、アントニウスもクレオパトラ7世の船を追って逃亡し、ともにアレクサンドリアへ戻った。結局、アントニウス派およびプトレマイオス朝の連合軍は、追跡してきたオクタウィアヌス軍に敗北を喫する。アントニウスは部下を置き去りにし、女を追って戦場を後にしたと嘲笑されることになった。
クレオパトラ7世死去の誤報に接したアントニウスは自殺を図る。それを知ったクレオパトラ7世の指示により、アントニウスは瀕死の状態でクレオパトラ7世のところにつれてこられたが、息を引き取った。クレオパトラ7世自身はオクタウィアヌスに屈することを拒み自殺した。贈答品のイチジクに忍ばせていたコブラに身体(胸)を噛ませて自殺したとも伝えられている。オクタウィアヌスは彼女の「アントニウスと共に葬られたい」との遺言を聞き入れた。
エジプトを征服したオクタウィアヌスは、紀元前30年、「カエサルの後継者」となる虞れがあるカエサリオンを殺害してプトレマイオス朝を滅ぼし、エジプトをローマに編入して皇帝直轄地(アエギュプトゥス)とした。
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