Subject : 五賢帝
カテゴリー : 歴史
五賢帝
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五賢帝(ごけんてい)は、1世紀末から2世紀後期に在位したローマ帝国の5人の皇帝、またその在位した時代のこと。しばしばネルウァ=アントニヌス朝、ネルウァ・トラヤヌス・アントニヌス朝とも称される(この場合はルキウス・ウェルス、コンモドゥスも歴代皇帝に含まれる)。ローマ帝国始まって以来の平和であった、パックス・ロマーナと呼ばれる時代の一角をなす。
五賢帝は、その後継者に比較して穏健な政策によって知られる。時期としては紀元96年のドミティアヌスの死から、紀元180年のコンモドゥスの登位に至る時期を指し、ネルウァ、トラヤヌス、ハドリアヌス、アントニヌス・ピウス、マルクス・アウレリウスの5人の皇帝が該当する。また、 続くトラヤヌス帝は、拡大政策をとり、ダキア(ルーマニア)、メソポタミアを占領した。次のハドリアヌス帝の時代に、ローマ帝国は最盛期を迎えた。
○ ネルウァ (Marcus Cocceius Nerva)
○ トラヤヌス (Marcus Ulpius Nerva Trajanus)
○ ハドリアヌス (Publius Aelius Traianus Hadrianus)
○ アントニヌス・ピウス (Titus Aurelius Fulvius Boionius Arrius Antoninus Pius)
○ マルクス・アウレリウス (Marcus Aurelius Antoninus)
これらの諸帝のうち、マルクス・アウレリウスを除く4人は世襲によらず養子によって後継者を指名した。このことで「五賢帝は実子や血縁者を帝位に就けずに、元老院から最適任者を養子に迎え帝位に就けた」と思われがちであるが、実際はマルクス・アウレリウス以外は血を分けた息子に恵まれず養子を迎えざるをえなかったと言う単純な理由である。トラヤヌスは生前にハドリアヌスを養子に迎えていた訳ではなく、彼の死後、養子縁組を知らせる手紙を皇后ポンペイア・プロティナが捏造したことによるでっち上げとの説が有力である(現にトラヤヌス死去が公表されたのはハドリアヌスの養子が決定した後だった)。そのハドリアヌスが迎えた養子アントニヌス・ピウスは無能ではなかったにせよ、特に華々しい政治経歴を持っているわけではない。また、当のアントニヌス・ピウスも養子を自分の意思で決めた訳ではなく、ハドリアヌスの命令である。その養子であるマルクス・アウレリウスとルキウス・ウェルスは、当時少年であり元老院議員ですらない。更にネルウァを除く4人は、直系の血縁者ではないものの親戚同士にあり、血縁者以外に帝位を継がせたという説にも疑問が残る。
一般には五賢帝という名称から、この5人がローマ皇帝としての名君のベスト5であるかのように認識されることもあるが、いささか事実と異なる。この名称は、18世紀英国の歴史家ギボンが、著書『ローマ帝国衰亡史』の中で、この時代を「人類が最も幸福であった時代」と評したことに由来する。すなわち、単に時代として人類史上のベストだった(もちろんギボンの主観であるが)という意味であり、その時代のローマ皇帝の人物評は別の話である。もちろん人物の優劣についての評は学者の間でも意見は分かれているが、ギボン以前に五賢帝をローマ皇帝のベスト5であると評した歴史家は存在しないし、またギボン自身もそう評している訳ではない。今日でも「ローマの平和」の究極の到達点として広く想起されるものの、ハドリアヌス帝の頃から古代ローマの領域は拡大から現状維持・縮小に転じており、ローマ帝国の衰亡の兆しが始まっている。
アントニヌス・ピウス帝の時代も平穏だった。最後のマルクス・アウレリウス帝の頃に辺境の蛮族との戦いが激しくなった。しかし、帝国は何とか安定を保っていた。彼の息子コンモドゥスは、快楽と欲望に身をつつみ国内は荒れ、192年に親衛隊に暗殺されてしまう。
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