Subject : 黄巾の乱
カテゴリー : 歴史
黄巾の乱
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中国後漢末期の184年(中平1年)に太平道の教祖張角が起こした農民反乱。目印として黄巾と呼ばれる黄色い頭巾を頭に巻いた事から、この名称がついた。また、小説『三国志演義』では反乱軍を黄巾“賊”と呼称している。後漢の衰退を招き、三国時代に移る一つの契機となった。
冀州鉅鹿の張角は『太平清領書』に基づく道教的な悔過による治病を行った。それをもって大衆の信心を掌握し、政治色を濃くしていった太平道は、数十万の信徒を三十六個に分け、一単位を「方」とし軍事組織化していった。 漢王朝への蜂起を計画した張角は、陰陽五行思想に基づく「蒼天已死 ?天當立 ?在甲子 天下大吉」(『後漢書』71巻 皇甫嵩朱儁列傳 第61 皇甫嵩伝[1]、蒼天すでに死す、黄天まさに立つべし。歳は甲子に在りて、天下大吉)をスローガンにし、役所の門等に甲子の文字を書いて呼びかけた。ちなみに黄色は五行思想では土を表す色で、木火土金水の順に巡るとする法則に合わせれば、火(赤色)の王朝である漢の次、代わるものという意味もある。
184年(光和7年、干支年は甲子)、先に荊・揚州で兵を集めさせていた馬元義を洛陽に送り込み、中常侍の封?、徐奉等を内応させ3月5日に内と外から蜂起するよう約束したが、張角の弟子の唐周が宦官達に密告した事で蜂起計画が発覚し、馬元義は車裂きにされた。事を重く見た霊帝は三公や司隸に命じ、宮中の衛兵や民衆を調べさせ千人余りを誅殺し、張角捕縛の命を下した。
2月、事がもれた張角は予定より早く諸方に命じ一斉に蜂起し、自らを天公将軍と称し、弟の張宝、張梁をそれぞれ地公、人公将軍とした。
3月、霊帝は何進を大将軍とし将兵を都亭に駐屯させ、八つの関に都尉を置き洛陽を守護させた。皇甫嵩や呂強等の進言によって党錮の禁を解き、官界から追放されていた清流知識人が黄巾賊に合流するのを防ぎ、且つこれを利用した。また宮中の倉の銭と西園の馬を出し人材を募り、盧植を張角がいる冀州方面へ、皇甫嵩と朱儁に豫州潁川方面へと、それぞれ黄巾の勢力が強い所へ派遣した。
張角ら幹部が死去した後も乱の根本的原因である政治腐敗による民衆への苛政が改善されることはなく、黄巾賊の残党はこののちも広範な地域に跋扈し、反乱を繰り返したり、山賊行為や盗賊行為を行っていた。これらの中で楊奉、韓暹に率いられ白波谷に拠った残党は「白波賊」と称されたが、献帝の洛陽帰還の際に後漢に帰順し、皇帝奪還を目論む李?、郭らと交戦した。後に盗賊のことを「白波」と称するのはこれによる。また、青州は黄巾賊が大流行しており、青州の黄巾軍100万人が中国北部を大いに荒らし、公孫?に大敗するも、192年、?州刺史の劉岱を殺したが、曹操の討伐を受け、黄巾賊の兵30万人・非戦闘員100万人が曹操に降伏している[2]。
黄巾賊の勢力が弱かった涼州のような地域でも後漢政府の統制が弱まったため、韓遂らが相次いで無軌道な反乱、自立、抗争を繰り返し、異民族も辺境でしばしば略奪行為をおこなった。このような治安の悪化に備えるため、主に豪族を中心にして村落共同体規模で自衛・自警のための武装を行うものが現れた。
治安の悪化に伴い、知識人を含む多くの民が難を避けて荊州・揚州・益州など江南や四川の辺境地域に移住したことは、これらの地域の文化水準の向上と開発を促し、これらの地域が自立する素地をなしたことは三国時代やその後の南北朝時代の要因となった。
黄巾の乱以後、軍閥的な勢力が多数出現し、これらによる群雄割拠の様相を呈するが、これら軍閥を支えていたのは黄巾の乱により武装化した豪族たちと広汎な地域に拡散した知識人たちであった。
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