Subject : 三国争覇
カテゴリー : 歴史
三国争覇
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215年、曹操は漢中にいた五斗米道の張魯を降伏させる。
これに対する劉備としては、曹操軍による漢中制圧は非常な重大事であり、この地を抑えられるとこの方面から北上することはほぼ不可能になる。そこで219年に劉備は自ら出兵して、これに従軍した黄忠や趙雲の奮闘もあり、守将の夏侯淵を討ち漢中を奪った(定軍山の戦い)。この地を獲った劉備は漢中王を名乗る。この称号はかつて劉邦が漢中(南鄭)の地で漢王を名乗ったことに倣ったものと思われる。
荊州の劉備領を守備していたのは関羽で、その頃の関羽は荊州北部の曹操領に対して猛烈な攻撃をかけ、曹操の部将の于禁が率いる七軍を壊滅させ、樊城・襄陽を包囲した(樊城の戦い)。一時は曹操すらうろたえて遷都を考えたほどであった。そこで曹操は、孫権に長江南部の領有を認める条件で孫権と同盟を結び、孫権に劉備を攻撃させた。そして、関羽の隙を突いた孫権の部下の呂蒙・陸遜の策にはまり、関羽は孫権に捕らえられて処刑され、南郡・武陵・零陵は孫権の領有するところとなった。この戦いの結果、劉備たちと対立することが確定的となったために孫権は曹操に対して形式的ではあるが、臣従した(孫権は部下の提言もあり、一時は劉備との対立をそらすため、関羽の首を曹操の元へ送ることで打倒曹操を掲げる計画を立てたが、逆に劉備の怒りを増大させることになり対立は深まった)。
220年に曹操が死に、後を継いだ曹丕はついに献帝より禅譲を受けて皇帝(文帝)となり、魏を建国した。これを聞いた劉備も対抗して221年に皇帝に即位、漢の後継者と称した(蜀(蜀漢)の創設)。
皇帝となった劉備だが、長年の部下である関羽と魏攻略の足がかりとなる荊州を失った怒りは激しく、孫権に対する復讐戦を企図し、反対する者を遠ざけて出兵に踏み切った。蜀漢軍は最初のうちは連戦連勝であったが、呉の陸遜の策にはまり、大敗(夷陵の戦い)、劉備は退却し白帝城で病死した。その後を劉禅が継ぎ、諸葛亮が丞相として蜀漢の内外政を一手に引き受けることになる。
蜀漢に大勝した呉は、長江南部の地域に確固とした基盤を築いたことから、魏に対して従属的な姿勢をとる必然性も無くなり、元号を黄武と定め、独立色を明確にした。更に劉備亡き後の蜀と同盟し、再び魏に対抗するようになった。
魏の文帝は内政面に意を砕き、新しく九品官人法を施行した。この法は南北朝時代末期まで適用されることとなる。また、222年に魏は3方向から呉を攻め、呉を苦しめたが、疫病が流行したため退却した。文帝は226年に40歳で死去、曹叡(明帝)が後を継いだ。
諸葛亮蜀漢の諸葛亮は魏に対する北伐作戦を最終目標とし、そのための足場固めのために225年には南征を行い、蜀漢に反逆した雍?・高定の反乱を鎮圧した。2年後の227年に諸葛亮は出師の表を奉り、北伐を決行した。この戦いは7年間・5度に及び、諸葛亮は魏の曹真・張?・司馬懿・郭淮らと戦い、武都・陰平の2郡を獲得し、張?を討ち取った。234年の最後の北伐の最中、陣中で諸葛亮は病に倒れ没した。その後の蜀漢は一旦は消極的な政策をとり、大規模な軍事侵攻作戦を実行しなかったが、姜維が軍権を握ると北伐を繰り返し国力を消耗した。
228年、呉の周魴が偽りの降伏を魏に申し出て、魏の曹休を石亭に誘い出した。呉の陸遜は朱桓・全jを率いて曹休と戦い、大勝した(石亭の戦い)。
呉では229年に孫権が皇帝を名乗り、一時代に一人だけの名目だった皇帝が同時に三人並ぶことになった。
230年に呉は海を渡って夷州(いしゅう)と亶州(たんしゅう)に兵を出したという記録があり(夷州には辿り着いたが、亶州には辿り着けなかった)、これは台湾(夷州)と沖縄諸島(亶州)ではないかと考えられているが、日本ではないかとも考えられている。
この頃、呉の呂岱は交州に出兵して、この地の独立勢力の士氏一族を滅ぼして、この地を呉の直轄とし、南海交易の利益を占めた。
234年から3年間、呉の諸葛恪・陳表・顧承らは揚州の非漢民族である山越を討伐し、降伏した山越の民を呉の戸籍に組み込み、兵士を6万人徴兵した。
235年、魏の幽州刺史の王雄の命令を受けた韓龍は、鮮卑族の軻比能を暗殺した。
呉軍を撃退し諸葛亮の北伐を防いだ魏の司馬懿は、その軍功と権力から周囲に警戒されるようになる。この時期に遼東には公孫氏勢力が独立していたが、呉と結んで魏に対抗するようなそぶりを見せたために魏の中央は司馬懿に対して討伐を命じ、238年、これを滅ぼした。その翌年の239年、倭の卑弥呼の特使が魏に訪れた(魏志倭人伝)。また、魏は遼東を完全に支配下に置くことで東の高句麗と国境を接するようになり、のちの244年には武将・?丘倹が高句麗首都を陥落させている。
239年、曹叡は早世し、養子の曹芳が魏の皇帝となった。曹叡は死去するに際して司馬懿と皇族の曹爽に曹芳の後見を託したが、後に司馬懿は曹爽とその取り巻きに権力を奪われ、閑職へと追いやられた。これに対して司馬懿は249年に息子の司馬師らと共にクーデターを起こして曹爽一派を殺害し、権力を掌握した。完全に魏を牛耳った司馬懿だが、旧主の曹操に倣って帝位の簒奪は行わないまま251年に死去した。
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