Subject   : 軍人皇帝の時代

カテゴリー  : 歴史  


 軍人皇帝の時代
 コンモドゥス帝後の数人の皇帝は、いずれも暗殺、敗北死という惨めな最後を遂げた。 そんな中、193年にセプティミウス・セウェルス帝(初のアフリカ出身の皇帝)が即位し、一時的に安定する。その息子カラカラ帝は、全自由民にローマ市民権を与えた。

 セウェルス帝の死(235年)からディオクレティアヌス帝の即位(284年)までの50年間は、26人の皇帝が乱立する混乱の時代で、各地の軍隊が勝手に皇帝を擁立して争う軍人皇帝の時代となった。

 その頃には元老院の権威は失墜し、北方のゲルマン人や東方の ササン朝ペルシアの進入が激しくなる。260年、エデッサの戦いでウァレリアヌス帝はペルシア王シャープール1世の捕虜になりそこで生涯を終える事態まで発生した。

特徴として彼らは以前の皇帝とは異なり、旧来の貴族層による擁立ではなく主にローマ軍団の軍事力を背景としたクーデターによることが挙げられる。軍人皇帝の身分は比較的低い出自が多く、たとえば最初の軍人皇帝であるマクシミヌス・トラクスはトラキア出身の一兵士からの叩き上げであり、マクシミヌス以外にも軍人皇帝たちの多くが名乗るほどの家名や祖先は持たず、彼らの擁立は軍隊の経歴により、その影響力も主として兵士であった。また元老院や貴族層は力を失って国政を動かす影響力に乏しくなり、軍隊の推挙を受けた指導者を追認するだけの存在となった。よって、属州軍により推挙され元老院の認定のないまま皇帝を僭称する軍司令官が乱立した。前線で戦う兵士たちにとって軍司令官として有能な者を皇帝に選ぶのは生活の上でも身の安全の上でも死活問題であり、また元老院を形成する貴族層はかつての経済力や動員力・人脈を失い承認する以外に無かったのである。特に軍人皇帝のひとりであるガッリエヌスによって、軍務の経験者が元老院から分離された事が、この傾向に拍車をかけた。

しかし、軍人皇帝たちの多くはローマ帝国国境の軍司令官であったため、帝位の交替のたびに国境防衛に空白を生み、防衛能力の弱体化を招いた。またガリア地域における民心の離反と支配力喪失によりゲルマン人の侵入を容易にし、結果としてアウレリアヌス帝が再びローマに城壁を築くほどであった。皇帝の要件はローマに対する忠心を失った知識層や民衆の支持ではなく、相対的に高まった軍属・兵士の支持と、他の属州軍団に立ち勝る軍事力あり、これがなくなると剣で取った権力を剣によって失うことになった。また、それぞれの属州において兵士がそれぞれ皇帝候補を擁立し、それら皇帝候補者の争いによる軍閥内の争いも生じた。

284年、プラエフェクトゥス・プラエトリオであったディオクレスが帝位に就くと、ディオクレティアヌスと名を変え、帝国のシステムを改革する。彼はまた帝国を4分割するというテトラルキアの制度を作り上げた。


 ⇒ 世界史年表

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