Subject : 四分統治とキリスト教公認
カテゴリー : 歴史
四分統治とキリスト教公認
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ディオクレティアヌス帝は専制君主制を導入し、立法・司法・軍事の
最高権力を一手に握りました。また四分統治(帝国を東と西に分け、そ
れぞれに正帝、副帝を置く政策)をとり、広大な領土を効率的に収めよ
うとしました。
この頃、帝国はキリスト教会に対する態度の選択を迫られていまし
た。迫害を生き延び、「帝国内の帝国」とまで呼ばれた独自の組織力を
もつようになったキリスト教会を無視できなくなったのです。
その際武力によって教会を屈服させるか、あるいは教会と盟約を結
び、それを利用するか、この二つの対策のうち前者の迫害対策をとっ
たのが東の正帝ディオクレティアヌスで、後者の融和政策をとったの
がコンスタンティウス・クロルスとその子のコンスタンティヌス帝です。
父コンスタンティウスは西の副帝としてライン川前線防衛の任にあ
たり、今日のイギリスとフランス地域を統治していました。彼はディ
オクレティアヌスのキリスト教迫害に対して、会堂破壊などのジェス
チャーを示したものの、積極的な迫害は行わず、キリスト教徒に好意
をもたれていたと言われます。
彼の死後、息子のコンスタンティヌスが、その政策を継ぎ、いよいよ
迫害政策と融和政策の決定的な対決が起こりました。312年10月、帝国
の西半分の覇権をかけたミルウィウス橋の決戦で、コンスタンティヌ
スは大勝利をおさめ、翌313年東の正帝リキニウスとともに「ミラノ勅
令」を発布、実質的にキリスト教を公認、324年にはリキニウスを
破り、ローマ帝国の単独支配を達成しました。
- ● キリスト教の国教化
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313年のミラノ勅令によって、ローマ帝国の公認宗教となったキリス
ト教は帝国の宗教政策の一環に組み込まれることになりました。
コンスタンティヌス帝の宗教政策は「一つの帝国、一つの教会」と表
現されますが、これは一人の独裁的な皇帝の意志によって、帝国を再
編成しそのために特にキリスト教会を利用することを意味しました。
この政策を進めるため、キリスト教徒の集中している東方に新都コ
ンスタンティノポリス(現在のイスタンブール)が建設され、330年に
異教の影響力が強いローマから帝都が移されました。
さらに帝国にふさわしい組織と信仰を持つ、統一された「一つの教
会」を形成するため、対外的には教会の権威を高め、内部的には教会
の統一が図られ、そのため分派や異端は厳しく処罰されました。
また国内は大きな教区に分けられ、それぞれの中心地にある教会の
主教が総主教となりました。まず325年、ローマ、アンティオキア、アレ
クサンドリアがニカイア公会議で承認され、さらに381年、コンスタン
ティノポリスがコンスタンティノポリス公会議で、451年エルサレム
がカルケドン公会議で承認されて五つの総主教区が誕生しました。
こうして教会の組織が帝国の組織とますます似通ったものになり、
両者の一体化が進んでいきました。
その後ローマの伝統宗教を復活しようと試みたユリアヌスのような
皇帝も現われましたが歴代の皇帝は大体キリスト教を支持しました。
そして392年テオドシウス帝の時代に異教が全面的に禁止され、キリ
スト教はローマの国教となりました。
⇒
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