Subject : ゲルマン民族の大移動
カテゴリー : 歴史
ゲルマン民族の大移動
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アジア系の遊牧民族であるフン族は、1世紀の中頃までヴォルガ川流域に定着していたが、4世紀後半にカスピ海の北を西進し、ドン川を越えて黒海北岸に居住していた東ゴート族を征服し(375)、さらに西ゴート族に迫ったので、西ゴート族は375年に南下を開始し、翌年ドナウ川を渡ってローマ帝国領内に侵入した。これが有名なゲルマン民族の大移動のきっかけとなった。
インド=ヨーロッパ語族のゲルマン人は、前1000年頃からバルト海沿岸に居住していたが、ケルト人を圧迫しながら、紀元前後の頃までにはライン川からドナウ川の北岸一帯にまで進出し、ローマ帝国と堺を接するようになった。
ケルト人もインド=ヨーロッパ語族の一つで、前10〜8世紀頃から前6〜4世紀頃までには原住地のライン川・エルベ川・ドナウ川流域からアルプス山脈以北のヨーロッパの広い地域に広がっていた。しかし、ガリア(現在のフランス)は前1世紀に、ブリタニア(現在のイギリス)は後1世紀にローマ帝国の支配下に置かれた。ケルト人は現在ではアイルランド・ウエールズ(イギリスの南西部)・スコットランドやブルターニュ(北フランス)などに居住している。
民族大移動を起こす前のゲルマン人の社会、いわゆる原始ゲルマン社会を知る上で重要な史料としては、カエサルの「ガリア戦記」とタキトゥスの「ゲルマニア」がある。特に「ゲルマニア」は、ローマの政治家・歴史家であったタキトゥスが100年頃のゲルマン民族について書いた最も重要な史料である。
「ゲルマニア」は、第1部「ゲルマニアの土地・習俗」と第2部「ゲルマニアの諸族」の2部46章から成っている。それによると、ゲルマン民族は数十の部族に分かれ、狩猟・牧畜・農業によって生活していた。第11章「会議(民会)」には「小事には長老達が、大事には邦民全体がこれに掌わる。しかしその決定権が人民にあるごとき問題もあらかじめ長老達の手許で精査せられるという風にしてである」(岩波文庫)とあり、重要な問題は民会で決定されていた。
ゲルマン人はローマと堺を接するようになると、一部のゲルマン人は傭兵・下級官吏・コロヌス(小作人)としてローマ帝国内に移り住むようになった。特に五賢帝時代頃からローマ帝国で兵員が不足するようになると、ゲルマン人を屯田兵としてだけでなく正規軍の中にも採用し、民族移動の時期になると、兵士だけでなく、ローマの将軍や宰相にまでゲルマン人が現れてくる。よく言われるようにローマ帝国の末期にはローマはまさに内から「ゲルマン化」していた。
ゲルマン民族は狩猟・牧畜を主としていたが、次第に農業が重要になってきた。しかし、当時の農業は施肥や輪作を知らなかったので、彼らは農地がやせるとその土地を捨て、新しい農地を求めていった。このためゲルマン人社会での人口の増加とともに土地不足が深刻となり、これが民族移動の内部要因となった。
フン族は東ゴート族を征服し、さらに西ゴート族に迫ったので、西ゴート族が375年に南下を開始し、ドナウ川を渡ってローマ帝国領内に侵入したことがゲルマン民族の大移動のきっかけになったことは先に述べた。
ゲルマン民族の大移動は、部族全体が王に率いられて家族と全財産を牛車に乗せ、これも重要な財産である家畜の群を従えての文字通りの大移動であり、固有の部族制を維持しながらの移動であった。
しかし、ゲルマン人の数はローマ人に比べると圧倒的に少数で、ローマ系の住民の約3パーセントほどであったといわれている。従って、移動に際してはローマに対して移住の許可を求めていくが、それが認められないときは流浪し、さらには生きるために戦闘や略奪・暴行に訴えざるを得なかった。
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