Subject : フン族の王アッティラ
カテゴリー : 歴史
フン族の王アッティラ
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現在のロシア・東欧・ドイツを結ぶ大帝国を築き上げ、西方世界の大王を自称した。またローマ帝政末期に広がっていたキリスト教の信者からは「神の災い」や「神の鞭」と恐れられた。
フン族は強力な騎馬部隊を率いる蛮族としてその名を轟かせており、東進の過程でアラン族やゴート族の王国を滅ぼして住民を虐殺し、生き残った者たちも配下の兵士として従えるなど、多くの部族を従える立場にあった。4世紀末から度々東西ローマの領内に入り込んでは、撤退する代償として莫大な賠償金を獲得していた。410年頃にフン族はドナウ川中流域を制圧し、433年に西ローマ帝国の将軍アエティウスとの取り引きによってパンノニアとイリュリクムの一部の支配権を認められた。
アッティラは406年頃、フン族の王ルーアの弟ムンズクの息子として生まれた。
434年頃からフン族の王として活躍したアッティラは、西はアルプス山脈からバルト海、東はカスピ海付近までを支配したと伝えられています。
441年、アッティラは東ローマ帝国に高額の貢納金を求め、その不払いを理由にして戦闘を開始しました。ドナウ川周辺に進出したフン族の軍隊は、東ローマ帝国領内にも侵入していきます。 443年に東ローマ帝国と講和を結ぶと、南方へ進撃してギリシャに侵攻、続いて西ローマ帝国をめざしました。451年にライン川を渡り、オルレアンを攻囲しますが、「カタラウヌムの戦い」で西ローマ軍とゲルマン諸部族の連合軍に敗北してしまいます。その後のフン族はガリア地方を経由して北イタリアに入り、ベルガモ、ミラノ、ベローナなどの都市に襲いかかりました。ローマは莫大な貢納金を払ってアッティラと講和を結びます。しかしこの時のアッティラの軍隊には数多くの疫病が流行しており、ローマに攻め入ることなど不可能に近かったのです。
イタリアから撤退したアッティラは、王国の都に戻ると次の年にイルディコという名の美女を娶ります。 彼女は、アッティラにとっては数多くの妻の一人でした。結婚式の祝宴で飲みすぎた彼は初夜の床で激しく吐血し、自らの血液に溺れて窒息死してしまいます。従者が発見した時、息絶えたフン族の王のかたわらには、新妻のイルディコがベールで顔をおおいながら震えて泣いていました。 アッティラの死後、フン族の王国は解体します。468年にアッティラの王子デンゲシクが東ローマ帝国に侵入しますが、捕えられて斬首されてしまいました。彼の首はコンスタンチノープルの円形劇場でさらしものにされ、フン族の王国は滅亡、他の民族に吸収されたフン族は歴史から消え去ります。
- ● 西ローマ帝国の滅亡
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皇帝の権威は失墜し、その後もヴァンダル、ブルグント、フランクなどといった諸ゲルマン民族が次々と帝国内に入り込んでいった。民族移動の影響が少なく、安定していた東側と違い、西ローマ帝国は次々と属州を奪われ、実質的に統治していたのはせいぜいローマ市中心のイタリア半島ぐらいであった。423年にはホノリウス帝が没し、その後の西ローマ皇帝も短命であった。このため、傭兵として雇われたゲルマン人が将軍となって、実質的に実権を握っていき、他ゲルマンの侵攻を阻止するという事態も一般化していき、騒がれたスティリコ将軍時代とはもはや異なってしまっていた。
451年には民族大移動の原因をつくったフン族が、大王アッティラ(位433-453)の下で西ヨーロッパ侵攻を行い、西ローマ帝国は西ゴート、ブルグント、フランクらと連合軍を組んで戦って勝利を収めたが(カタラウヌムの戦い)、西ローマの軍隊はすでにゲルマン人傭兵隊長が握る傾向にあった。傭兵隊長は皇帝の権威も動かし続け、西ローマ皇帝を追放し、自身の子を即位させることもあった。
476年、ゲルマン人傭兵隊長・オドアケル(433?-493)は、当時の西ローマ皇帝ロムルス=アウグストゥルス(位475-476)を廃位させ、オドアケル自身はイタリア王位(476-493)を名乗り、西ローマ帝国は滅亡した。ロムルス=アウグストゥルス帝も前の傭兵隊長の子であった。
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