Subject   : 北周

カテゴリー  : 歴史  


 北周
  西魏の政権を掌握した宇文泰は武川鎮の出身で、北魏末には陝西一帯を支配する大軍閥となっていた。北周・後の隋・唐の中枢部はほぼ全てがこの武川鎮出身者(武川鎮軍閥)で占められており、以後の中国を長い間この集団が支配することになる。

宇文泰は新たに二十四軍制を創始した。この制度は軍の組織を上から柱国(ちゅうこく) - 大将軍 - 開府という系列にまとめ、その頂点に宇文泰が立つというものである。この制度は後の府兵制の元となったといわれる。

また北魏の元で漢風に改められた鮮卑の氏を元のものに戻すなど、鮮卑的な復古政策を取る一方で、『周礼』を基にしたとする中国的な復古策をも推進した。後に国号を周と名乗るのもそれ故である。この兵力を元に、553年には南朝梁から四川を奪い、更に侯景の乱に介入し、荊州北部(湖北省)に傀儡国家・後梁を誕生させて、南朝に楔を打ち込むことに成功した。

556年の宇文泰の死後は甥の宇文護が実権を握り、宇文泰の第3子・宇文覚を擁立して魏帝より禅譲を受けさせ、北周を建てた。宇文護は初代の宇文覚(孝閔帝)・第2代明帝・第3代武帝を擁立して専権を極め、突厥と結んで北斉征服を試みるが失敗に終わり、最後は武帝の策にはまり誅殺される。

572年に親政を開始した武帝は、巨大な権力と財産と土地を所有していた道教・仏教を弾圧してその財産を没収し、私度僧や偽濫僧などを含め、一般の僧侶や道士を兵士として徴兵した。その一方で、官立の儒教・仏教・道教をあわせた三教の研究機関としての通道観を設置し、優秀な僧侶や道士は、その学士として収容した(三武一宗の廃仏の第2)。

これを元にして、575年から北斉に対する攻撃を開始する。北斉は暗君・高緯の元で弛緩しており、577年にこれを滅ぼして高緯を捕らえた。更に武帝は南朝陳に対しても攻撃を仕掛けるが、578年の親征途上で病死する。

後を継いだのは長男の宇文贇(宣帝)であったが、宣帝は武帝の厳しい教育を恨んで、父の棺に向かい「死ぬのが遅い」と罵ったと言う。宣帝は即位の翌年に長男の宇文衍(静帝)に譲位して上皇となるが、その施策は無軌道で無用な土木工事を好み、酒色に耽ったために人望を失い、それに代わって期待を受けたのが十二大将軍の一人である楊堅(後の隋の文帝)である。

楊堅の娘楊麗華は宣帝の皇后となっており、楊堅は外戚として政治に加わっていた。更に静帝が即位し、580年に宣帝が死去すると摂政となって全権を掌握、翌581年に禅譲を受けて隋を建て、北周は滅んだ。



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 ⇒ 世界史年表

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