Subject   : メディア王国

カテゴリー  : 歴史  


 メディア王国 
 イラン高原は古くはエラム人(語族系統不明)が文化を担い、メソポタミアのシュメール人やアッカド王国、ウル第3王朝、古バビロニア王国、アッシリアなどと、相互に侵略し合い、もしくはその支配下に入った。最盛期には、スサを首都としたエラム王シュトルク・ナフンテ1世が、バビロニアの多くの町を陥とし、シッパルからハンムラビ法典の石碑を奪って、スサに建て直した(前11c半ば)。今日ルーブル美術館にあるハンムラビ法典石碑はこうしてスサから出土したものだ。エラムは前7c末迄には北方のメディア王国の支配下に入り、その後エラムとして再興することはなかった。しかし、エラムの行政制度や官僚機構は、メディアやアケメネス朝ペルシアに取り入れられ、エラム人は権力の中枢に入って政治を動かした。アケメネス朝においては、エラム語は公用語の一つとなって、使われ続けた。

 一方イラン東北部には中央アジアの草原地帯から印欧系のアーリア人が侵入した(前2000〜1000年頃)。アーリア人は諸部族がゆるやかな連合体を作っていた。後にアケメネス朝の国教となるゾロアスター教も、前1200〜1000年頃興った。ゾロアスター教の聖典「アヴェスター」は、インドに向かったアーリア人の「リグ・ヴェーダ」と成立にそれほど時間的な差がないため、明らかな近縁関係が認められる。イラン高原のアーリア人はイラン人の主要な勢力となった。

 メディア王国はこのイラン人の国でエクバタナ(ハメダーン)を本拠地とした。アッシリアは前9c半ばから、対メディア遠征を行っていたが、メディア王キュアクサレスのとき、軍隊を槍、弓、騎馬の三軍に組織し、バビロニア(新)のナボポラッサル王と同盟してアッシリアと戦い、前612年アッシリアの首都ニネヴェを陥してこれを滅ぼした。また、娘をナボポラッサルの王子ネブカドネザル2世に嫁がせ、バビロンとの友好関係を維持した。さらに、アナトリアのリディア・アリュアッテス王と対峙した(前585年)ものの、その後リディア王の娘を王子の嫁に迎え、新バビロニア、メディア、リディア・オリエント3国は姻戚関係で結ばれることになった。

 

  ⇒ 人類の進化
  ⇒ 世界史年表

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