Subject : サラミスの海戦
カテゴリー : 歴史
サラミスの海戦
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前480年9月末、アテネの沖合のサラミス島付近でアテネ海軍が三段櫂船を駆使してペルシア海軍を破った海戦。ペルシア戦争の帰趨を決した重要な海戦であった。
ペルシア帝国のクセルクセス1世によるペルシア戦争でのギリシア遠征は、陸路ではテルモピュライの戦いでスパルタ軍を破り、アテネに迫った。一方、ペルシアの海軍もエーゲ海の制海権を目指してギリシアに迫った。ペルシアの海軍はフェニキア人によって編成されており、ギリシア人と地中海の交易をめぐって争っていたフェニキア人にとっては、ペルシアを後ろ盾としてギリシアを叩く機会だと考えた。大きな危機に陥ったアテネではテミストクレスの献策で急遽海軍を強化することとなり、船底を三重にして漕ぎ手を載せる大型の三段櫂船を200隻建造した。さらにテミストクレスは陸上では勝ち目はないとみて、アテネの婦女子はすべて疎開させ、戦える市民はすべて船に乗って、海上で雌雄を決することにした。ペルシア軍はついにアテネを占領したが、海上に逃れたテミストクレス指揮のアテネ海軍は、決死の思いで三段櫂船を敵船に体当たりする戦術をとった。このサラミス海線はアテネ海軍の大勝利となり、陸上からこれを見たクセルクセスはアテネ攻撃を放棄して、撤退した。なお、サラミスの海戦と同じ時、シチリア島ではギリシア人の植民市シラクサが、フェニキア人の植民市で大きな勢力のあったカルタゴと戦い、勝利している(ヒメラの戦い)。
このサラミスの海戦でのアテネ海軍の勝利は、テミストクレスの名声を高めるとともに、三段櫂船の漕ぎ手として戦争に参加した無産市民の発言権を強め、アテネにおける民主政治の徹底という影響をもたらした。
- ● 三段櫂船
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ギリシアの三段櫂船(さんだんかいせん、トリエレス。または三段橈船とも)は、乗員200名中180人までが三段に設営された板に腰かけて、合図に合わせていっせいに櫂(かい)を漕いだ。漕ぎ手は武器、武具を必要としないから、貧しい市民、最下層の市民つまり無産市民でもなることができ、戦争に参加して勝利を国にもたらす上で大きな働きをした。特に、ペルシア戦争のサラミスの海戦での勝利は三段櫂船の活躍があって可能だった。これ以後、三段櫂船の漕ぎ手として活躍した無産市民の発言力が強まり、アテネ民主政が徹底されることとなり、その全盛期を迎える。
- ●テミストクレス
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前5世紀前半のアテネの軍人・政治家で、ペルシア戦争でギリシア軍を勝利に導いた立役者であったが陶片追放によってアテネを追放された。まず前493〜2年のアルコンをつとめ、アテネの外港を築いてその商業の発達をうながし、アテネ発展の基盤をつくった。前483年にアテネ近郊のラウレイオン銀山に新たな鉱脈が見つかると、そこで得られた富を、ペルシア軍の来襲に備えて、三段櫂船(軍船)を建造に宛てた。この三段櫂船は前480年のサラミスの海戦でテミストクレスの指揮の下で大活躍し、ペルシア海軍を破った。このようにテミストクレスはアテネにとって大きな貢献をした人物であったが、前470年代の末に陶片追放にされてしまった。アテネ市民は功績ある人物でも、独裁者になる恐れがあると考えたのであり、民主政を守る市民の強さが表れている。なおテミストクレスは、マケドニアを経てペルシアに渡り、ペルシア王アルタクセルクセスによってマグネシア地方の長官に任命され、その地で没したという。
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