Subject   : アラム人(Aramaeans)

カテゴリー  : 人文 >  


 アラム人(Aramaeans)
 アモリ人、フェニキア人とともに西セム系に属する遊牧民族。紀元前15世紀のアマルナ時代から始まる民族大移動の波によって、前11世紀ごろから前8世紀ごろまでシリア北部からメソポタミア北部に定着し、ここを根拠として、商業民族として四方に進出した。

『旧約聖書』やアッシリアの記録では強力な略奪者とされている。アッシリアのティグラト・ピレセル1世の前11世紀の碑文で、アラム人の名前が初めて現れる。前11世紀末、アラム人はシリア北部のユーフラテス川の両岸にビト・アディニという王国をつくり、ハーブール川流域からダマスカスを含むアンティ・レバノン山脈地域までを領有した。バビロンでも前9世紀にカルデア人(アラム系遊牧民)として知られる王国をつくったが、最終的に前8世紀にはアッシリア帝国によって滅ぼされた。しかし、アラム語はアッシリア時代にすでに国際商業語であり、その文字は西アジアで広く用いられた。

セム系遊牧民族の一部族。前 14世紀頃メソポタミアからシリアにかけて広く分布した。記録にはアッシリアのティグラト=ピレゼル1世の碑文に現れたのが最初。前 1030年ベンハダド2世はメソポタミア南部のアラム人を率い,アモリ人,エドム人,北部メソポタミアのアラム人と同盟してイスラエルと戦い,ダビデに敗れたが,アラム人は前 10世紀の間にシリアにあった後ヒッタイトの諸都市の多くを占拠。

● ティグラト・ピレセル(1世)
 トゥクルティニヌルタ1世(在位前1244〜前1208)のあと、弱体化した帝国を再興させたアッシリアの王(在位前1115〜前1077)。彼は南部アルメニアや南メソポタミアを軍事的に征服したのみならず、新たな開墾などを奨励することによって経済を立て直した。芸術、学問を保護し、また、それまでバビロニアに依存していた書記の学校をアッシリア独自のものとして発展させるなどして、文化政策をも推進させた。
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