Subject   : ポリスの衰退

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 ポリスの衰退 
 前404年、ペロポネソス戦争はスパルタの勝利に終わり、アテネの海外領土のすべてを失い、海軍は接収され、デロス同盟は解体され、「アテネ帝国」は消滅した。その後のアテネには、スパルタ軍が駐留し、その後押しを受けた貴族寡頭政治である「三十人僭主」による政治が行われ、民主政維持を主張した人々は厳しく弾圧された。「三十人僭主」は翌年に倒れ、アテネ民主政が復活した。以後、4世紀のアテネおよびギリシアの諸ポリスには卓越した政治指導者は出現せず、一般的には衆愚政治と言われるポリスの衰退期に入るとされている。

 しかしアテネ民主政の伝統が一気に消滅したのではなく、この時期にも弾劾裁判制度などが強化されており、それは必ずしも衆愚政と切り捨てるべきではなく、民主政の徹底、法治主義の理念の出現ととらえるべきことである。ポリス民主政を消滅させたのは、その内部的な腐敗と言うよりは、マケドニアという外部からの力によるものと考えるべきである。しかし、ペロポネソス戦争とその後のうち続くポリス間の戦争が、民主政の基盤である市民の生活基盤である農業や商工業を荒廃させ、かつての専制国家ペルシア帝国の攻撃をはねのけた重装歩兵として活躍した市民たちは没落し、新たな専制国家マケドニアの侵攻にはもはや抵抗する力が失われていたことも事実であろう。

● デマゴーゴス
 はじめは「民衆指導者」という意味であったが、次第に民衆に迎合し、あおり立てて民衆を動かし、権力にとって都合の良い方向にもっていく「扇動政治家」を意味するようになった。特にペリクレス後のアテネでは、民主政が徹底した反面、そのような扇動政治家が出現しやすい「衆愚政治」の状況になっていった、とされる。デマゴーゴスから、ウソの情報を意味する「デマ」という言葉が生まれた。

● 衆愚政治
 「衆愚政」という言葉には「気まぐれな民衆が群集心理によって国政を左右する悪質な衆愚政治」というマイナスな評価を含んでいる。しかし、前4世紀のアテネを、「衆愚」という価値判断のあからさまな用語で評価することは問題があり、客観的ではないので、現在では使用すべきでない。この言葉は古代では使われたが、現在の歴史叙述では使われなくなっていることに注意する必要がある。

 ⇒ アテネ

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