Subject : 地動説
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地動説
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地動説とは、宇宙の中心は地球ではなく太陽であり、地球や他の惑星、月やその他の天体は太陽の周りを回って(公転して)いるとする考え方です。そのため「太陽中心説」とも呼ばれています。
地動説についても天動説同様、時代の進展にともない少しずつ根拠を備えていきました。はじめは、あくまで計算上の仮説として考えられるという程度のものが、天体観測の精度の向上(ガリレイの望遠鏡に代表されます)や、数学知識の向上により天動説を凌ぐまでになっていったのです。
地動説というとコペルニクスやガリレオ・ガリレイが有名ですが、じつは古代ギリシャ時代にも地動説を唱えた人物がいます。また、地動説にも天動説同様、バリエーションが存在します。なお、地動説の英語訳としては「heliocentric theory」があります。
- ○ アリスタルコス(紀元前310年頃〜紀元前230年頃)
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- ○ コペルニクス(1473年〜1543年)
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1510年頃には既に地動説として取りまとめを行いました。非公式に『コメンタリオルス』を出版(近しい人だけに贈ったため公刊ではありませんでした)し地動説を説きました。コペルニクスの主著『天球の回転について』は死の直前、1543年に出版されました。
アルデバラン星食や外惑星(火星、木星、土星)の逆光現象を周転円によって解消しようとする天動説に疑問をもったコペルニクスは、天動説を細かく分析、周転円(小さな円)と従円(大きな円)は、地球から離れた1点を回るように変換ができることに気付きました。
その1点こそ、太陽です(コペルニクスの著述に忠実に従うと「太陽の近く」となります)。星々の運動の中心を太陽に置き換えることで合理的に説明ができると考えたのでした。また、すべての星が同じ中心を回っているのではなく、例えば月は地球を中心に回っていることも唱えました。
- ○ ジョルダーノ・ブルーノ(1548年〜1575年)
- ジョルダーノ・ブルーノは、コペルニクスの宇宙論を支持した初期の著名人として知られています。ただ、ジョルダーノの考える宇宙は、コペルニクスよりもさらに画期的ものでした。つまり、宇宙に絶対的な中心点はなく、地球も太陽も決して特別な存在ではないという宇宙モデルです。こうした考え方は、「宇宙の中心は地球」「地球は神が創りたもうた唯一無二の世界」とするキリスト教的宇宙論(天動説)と真っ向から衝突するものでした。
異端(キリスト教内の有害・禁止された思想の持ち主)と疑われ、以後逃亡生活を送りましたが、最後はイタリア・ヴェネツィアにて捕らえられローマの異端審問所に移送されると、7年間の獄中生活ののち火あぶりの刑に処せられました。
- ○ ヨハネス・ケプラー(1571年〜1630年)
- 1596年『宇宙の神秘』を著します。
ケプラーはプラハ在住の天文学者であるティコ・プラーエ (1546年〜1601年)に招かれ、その助手となります。ティコは当時最高度の精度をほこる天体観測者の大家でした。ティコの死後、膨大な観測データを引き継いだケプラーは、ティコを遺志を継ぎデータの解析・研究に没頭しました。
ケプラー以前の天文学では、コペルニクスも含めて天体の運動は円運動と考えられていました。これに対し、ケプラーはゆがんだ円ないし楕円であると主張しています。有名なケプラーの法則は、次の3条に整理されました。
第1法則(楕円軌道の法則):惑星は、太陽を焦点のひとつとする楕円軌道上を動く
第2法則(面積速度一定の法則):惑星と太陽とを結ぶ線分が単位時間に描く面積は、一定である
第3法則(調和の法則):惑星の公転周期の2乗は、軌道長半径の3乗に比例する
これらの理論は、ティコの残した火星の運動データから導かれたものです。このケプラーの法則により、ケプラーは惑星の軌道を計算式で表現することができるようになりました。また、ケプラーが作成した「ルドルフ星表」は、従来のプロイセン星表の30倍に精度を上げることに成功します。こうしたケプラーの研究により、地動説はようやく天動説よりも優位に立つことができたのでした。
- ○ アイザック・ニュートン(1643年〜1727年)
- ケプラーやガリレイの研究を調査し、集約させるための理論体系構築に尽力しています。有名な「運動の法則」「万有引力の法則」などをあわせ『プリンキピア』を著しました。古典力学を集大成し、数学的自然科学を大成したことで知られています。
このことにより、地動説への疑問「天体の運動の力はどこからくるのか」が明らかになります。同時に、惑星が太陽の周りを回転するのは単に太陽の引力のためであり、太陽が宇宙の中心という根拠はないということにも繋がりました。
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