Subject   : 冶金技術の歴史

カテゴリー  : 産業・技術 > 


 冶金技術の歴史
 金属材料を生産する技術

 ■ 古代の冶金
中近東やバルカン半島の新石器時代人は紀元前約5000年から自然銅を溶融・鋳造することを知り、前約4000年から銅化合物を木炭とともに加熱すると金属銅が得られることを知った。前3000年ころメソポタミアで、錫(すず)石を木炭で被覆した溶融銅に加えると、石よりも硬くて粘り強い青銅ができることがみいだされ、中近東は青銅器時代に入った。鉄は前2000年までに近東各地で隕鉄(いんてつ)とともに製錬鉄が貴重品に使用され、前1200年以後東地中海地方から鉄器が青銅器にかわる武器、農・工具となっていった。

 中国では前2500年ころから銅器が現れ、前1600年ころから青銅器時代に入った。前600年ころから製鉄が始まり、鋳鉄製農具が普及した。前50年ころから武器も鉄鋼製となり、完全に鉄器時代に入った。後漢(ごかん)(8〜265)の時代には、鋳鉄、錬鉄、鋼が各種の方法で量産され、水車送風、石炭が製鉄に利用された。

 ローマ帝国(前27〜476)には、錬鉄に浸炭して鋼とし、焼入れ硬化する技術があり、亜鉛鉱石を木炭被覆の溶融銅に加えて製造した黄銅が貨幣に用いられた。鉛板が水道管用として量産された。

 ■ 中世の冶金
中世には水車の利用が冶金技術に変革をもたらした。  中国では、唐〜宋(そう)(618〜1279)の時代に水車送風が金属製錬に用いられており、11世紀中期の金属年産量は銅8000トン、銀100トン、鉄4万トンに達したとみられる。

 ヨーロッパでは、民族大移動期(5〜8世紀)中も各地で木炭炉による錬鉄生産は存続したが、9、10世紀から各地の非鉄金属(銅、銀、鉛、錫、黄銅)の生産が盛んになり、教会用品や農・工具が製作された。11、12世紀から、水車動力の冶金機械が使用されるようになった。

 15世紀にライン川下流地方の製鉄炉は、水車駆動のふいごで送風し、溶融鋳鉄を生産するようになった。高炉の始まりである。高炉は主として鋳鉄砲・砲弾の製造に用いられたが、余分の鋳鉄は木炭火床で脱炭して錬鉄がつくられた。ハルツ、ザクセン地方では硫化銅鉱を焙焼(ばいしょう)し、溶鉱炉で数段階の還元溶錬工程により精銅を生産する銅製錬法(ドイツ法)が発達した。錫・鉛合金が広く用いられ、アンチモン、ビスマスの添加も行われるようになった。活字合金はこの系統の合金である。

 16世紀には、これらヨーロッパの製錬、試金、鋳造技術の詳細を記述した技術書の刊行が盛んになった。ビリングチオの『火工術(ピロテクニア)』(1540)、アグリコラの『デ・レ・メタリカ』(1556)などである。中国、宋応星(そうおうせい)の『天工開物』(1637)も冶金技術の記述が詳しい。17世紀末には、金属の燃焼・還元現象を合理的に説明するためフロギストン説が生まれ、18世紀初めレオミュールはこの説に基づいて、浸炭鋼、可鍛鋳鉄の本性と製造法を研究した。

 ■ 産業革命期の冶金
18世紀初頭にイギリスで、高炉を石炭コークスで操業することに成功した(ダービー・1709)。18世紀末にはイギリスで、石炭焚(た)き反射炉で錬鉄を生産するパドリング法が発明された(コート・1783)。コークス高炉の送風機にも、パドリング法の圧延機にも蒸気機関が用いられた。石炭製鉄の時代が到来したのである。高炉自体にも熱風の採用(ニールソン・1828)、高炉ガスの回収(フォール・1832)などの改良が加えられた。鋳鉄と錬鉄は産業革命を推進する工業材料となり、イギリスの鉄年産量は1750年の5万5000トンから、1853年の320万トンへと増大した。

 イギリスでは錫製錬も銅製錬も18世紀中に石炭焚き反射炉で行われるようになった。後者は数段階の酸化溶錬工程からなり、ウェールズ法とよばれた。蒸気機関は圧延機の能力を高め、18世紀中には広幅鉛板や銅板(船底保護用)が圧延されるようになり、19世紀に入ってブリキ板薄鉄板も圧延機で量産されるようになった。

 産業革命期に発達した気体化学に基づき、ラボアジエがフロギストン説を打破(1783)して樹立した新化学は、金属化合物、金属製錬の本質的理解を可能にした。分析化学が発達して、多くの新金属が発見され、亜鉛、コバルト、白金、ニッケル、マンガン、タングステンなどの製錬法が開発された。鋳鉄や錬鉄を構造材に用いるための強度試験が盛んに行われ、材料力学が弾性論を中心に発達した。18世紀末から、フランス、ドイツ、やや遅れてイギリスと理工系大学の設立が始まり、その教授たちによって優れた冶金学専門書が編纂(へんさん)され始めた(カルステン・1816、パーシー・1846)。

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